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検証 黒田藩 福岡城
(約400年前の偉業)
 黒田如水、長政の父子は関ヶ原の戦の功により筑前52万3千石の大名として,慶長5年(1600)12月、筑前に入国し、小早川隆景の築いた名島城に入った。 翌慶長6(1601)年から7年がかりで博多の西隣に接した那珂郡警固村福崎の地 (父祖の地備前福岡にちなんで福岡と改名)に築城した.これが福岡城である。

 福岡城は朝鮮役の折り難攻不落の城と称された朝鮮の晋州城を手本にしたと言われおり、城を中心にした博多湾の姿から「舞鶴城」ともよばれ、二百七十余年にわたって藩政の中心となる。総面積が約26万平方メートル(約8万坪)に及びます。

検証:福岡城の天守台
 福岡城で、一番高いところ、大天守台跡。そこに登ってみての景観は写真のように、ビルが建っていても平地なので、結構、遠くまで見える。江戸時代であれば、平屋しかないだろうから、もっとよく遠方が見わたせることだろう。つまり、多数の敵の進行があれば、一目瞭然に発見できるようになっている。わざわざ、天守閣を作らなくてもいい。そんな状況があるからこそ、黒田如水の天下取りを恐れる、家康の心配に対し、長政はあえて遠慮しているようにみせかけて天守閣をたてなかったのだろう。
 ちなみに、城より南の方は赤坂などの丘になっているので、こちらからの侵入は敵にとってはかなりの力がいると思うので、まずは無理だと思います。
 尚、この眺望を作るために、城の南方の赤坂山、大休山から本丸まで山続きを切り崩し、堀を作り、本丸より高い小山も低く削っている。

西は大濠公園、福岡タワー、ドーム他 北は博多湾方向 東は天神、長浜方向

検証:福岡城の城壁
 黒田二十四騎の一人として勇名をはせ、のちに大阪城、江戸城の築城にも参加した石積みの巧者、野口佐助一成を普請奉行としてその任に当たらせた。その仕事は約400年経っても崩れないように、キチンと石の面がそろい、スキがないように、石を積み重ねている。これらの石は、名島城や福崎、高宮、寺塚周辺の古墳を取り壊して利用したといわれている。おそらく元寇防塁の石もつかわれたのでは、ないだろうか。
 本丸を中心に東・北・西に二の丸、南に三の丸を配し、高さ5〜15mの石垣をめぐらし、御祈念櫓・時計櫓・武具櫓・月見櫓・花見櫓・潮見櫓など大小47棟の櫓をつらねた壮大な城である。

多聞櫓 城内の石垣

検証:福岡城の堀
 西側は昔、草ヶ江の入り江を利用して、今の大濠公園の大きな池と、南側・北側・東側は新たに堀を作り、東にある那珂川とも結びつけ、城の周囲を水がくまなく流れるようになった。内堀約5キロに及び、一方荒津山下(今の西公園下)の入海に、城の土を運んで埋め立て荒戸の侍屋敷としている。

絵図(観光用立て看板より) 大手門 平和台

考察:福岡城
 福岡城の工事は一大土木工事として,慶長6年に始まり同12年までの七ヵ年の歳月を費やしている。本当に、黒田如水、長政親子の智将ぶりに驚きを感じる。まず、最初に手狭な名島城から城を警固村福崎に移動したこと。それは、町人の町博多を飛び越え、閑疎な当時高台と思われる場所を選んだ、この地が昔、鴻臚館として使われていた程の地の利がきいている。
 二番目に城の周りを掘った土を、ただ捨てるのでなく、荒津山下の埋め立てに使うなんてグッドアイデア。
 三番目に、城壁の石として、名島城の石、元寇防塁の石、遺跡の石などかき集めてうまく積み上げてつくっている。
 四番目に、堀の幅が結構広いこと。例えば弓矢や当時の鉄砲でも的に当てられないとか。攻撃に対する守り易さがあると思う。そして、城内の作りにも工夫がされており、見かけの高さはあまり無いが、強固な守りのある城だと思う。
 この取材を通し、身近な福岡城のすばらしさを知ることができました。


【参考文献】
『ふくおか歴史散歩 第3巻』 福岡市
『博多だいありい』 博多を語る会
 
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