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旧福岡城堀
 黒田藩主忠之と筆頭家老大膳の確執は深まり、いつしか関係修復も難しくなっていった。
寛永9年(1632年)は正月に徳川秀忠が薨去した年。その3月、忠之は新将軍家光に帰国を許され、箱崎に到着した。迎えに来た重臣たちの中には大膳の姿がなかった。
大膳はその後も病と称して登城してこない・・・。
この時忠之31歳、大膳42歳。。
第22回 栗山大膳(後編)
 寛永9年6月、大膳宅へ様子を見に行かせた使者が、自分たちの前後左右に大膳の家臣20人ばかりに取り囲まれ、おまけに鎧が無造作に室内におかれていた、と復命した。

 これに忠之は激怒し、大膳に切腹を命じる。しかし江戸の聞こえをはばかった重臣におし止められ、忠之もその場は思い留まった。

 大膳は門を閉め蟄居し、14日に妻と次男を人質に差出して、恭順の意を示した。

 しかし翌15日の事。大膳宅より飛脚がでたのを、見張りの者が博多の南・辻堂口(今の承天寺近く)で捕えている。この飛脚は、豊後御目付(天領・日田の幕府の代官)の竹中采女正(うねめのしょう)に宛てた書状を持っていた。ちなみに竹中采女正は、竹中半兵衛の甥である。

 その書状には“先書に申し上げた通り、君主忠之が天下に対し反逆を企むので、諫言するのだが聞き入れてくれない。却って成敗されようとしている云々”とあった。

 その反逆というのも将軍家光の弟で、陰謀を企てたとして切腹させられた駿河大納言忠長に、忠之が密かに加担していたという恐るべき内容のもの。この他にも幕府ご禁制の大船を建造したなど、30を超える忠之の失政暴政が書き記されていた。

 また先に出されたという書状は、14日の人質を差出したときに既に送られていたのが判明した。

 こうなっては大膳を殺せない。幕府の詮議を受ける時に申し開きできなくなるからだ。

 忠之にとっては忌々しいことだが、逆臣の訴えに対しての申し開きの為、江戸参府に赴くしかしょうがなかった。

 おりしも6月には、肥後・加藤家が些細なことで取り潰しの憂き目にあっている。こちらは筆頭家老が、君主に謀反の企てありと訴えたものだ。忠之にとって薄寒い初冬の道程も、どんよりとした空の如く、陰鬱な心地であっただろう。

 そして翌年の3月、幕府の評定が始まった。忠之は西の丸に登城し、居並ぶ幕閣の前で身の潔白を弁明した。続いて黒田家重臣も大膳の訴えの内容を、明快に否定している。

 幕閣は、老中・土井利勝屋敷に大膳を召し出し、同じく老中・酒井忠勝、井伊直孝らが検分する中、黒田美作や井上道柏、そして倉八十太夫ら黒田家重臣と対決させた。

 忠之に異例に引き上げられ執政者となった十太夫は、忠之と大膳の関係悪化のもとなのだが、大膳は軽輩の者と取り合わない。そして大膳の父備後と共に黒田24騎と称えられた、黒田美作、小河内蔵充(おごうくらのじょう)、井上道柏らと矛を向かえるのであった。

 美作は大膳に、まず大膳の座が高いと一喝して下座に下がらせ、やや上座に座りこう述べた。「君主が年若く政道の足らぬところがあれば、後見のお主が出来る限り諫言を持って任ねばならない。それをこの様な逆謀を企むなど不義不忠、言語道断である。」。

 そして美作は、大膳の訴えの忠長との共謀の事実無根さ、大船建造も大膳が釈明済みであること、足軽隊増強にしてもその軽微たること謀反の性質でありえないなど、理論明快に論じた。

 続く内蔵充は、「長政の厚恩忘れたか。其の方が生まれし時、長政より祝儀の使者として備後の屋敷に行ったところ、備後は門の外まで出迎え、感涙を流して君恩に謝した。主君の為に身をなげうつべきお主が、公儀を欺き主君を悩ましている。」と涙を流して言った。

 大膳は、古語を引用し道理を説く能弁を展開し、古老たちに反論していった。しかし申し立てた肝心の謀反に関しては、証拠をだせないでいる。

 これには居並ぶ老中も大膳の真意を測りかね、大膳を別途呼び出すことにした。その席で大膳は「主君の性格を考えると筑前一国がいずれ滅亡する。それなら自分が悪者になって訴え出れば、所領のいくらかは安堵してもらえるであろう。藩の取り潰しは自分の本意ではない」と言って落涙した。

 老中たちも「さすがは長政の家臣よ」と感心して、以下の裁決を下した。

 忠之の謀反の嫌疑は晴れたが、君臣が対立し騒動を起こした責めにより、筑前の領地召し上げる。しかし父長政の忠勤戦功に対し、特別に旧領をそのまま与える。

 大膳は主君を直訴した罪により、奥州盛岡に配流。但し、150人扶持を生涯与えられる。一方のこの騒動のもとである、倉八十太夫は黒田家追放。後に高野山で蟄居している。

 大膳はもとより黒田家断絶を図ったのではなく、将棋の一手の如く、ある程度の成算を立てて、この騒動を起こしている。

 まずは、長政が家康より与えられた感状。大膳は直訴の直前に、長政の長男(正室の子ではない)に預け、お家取り潰しなど最悪の事態には、将軍家に提出して、罪一等減ぜられるよう後事を託している。

 そして上訴の先が、黒田家と交誼が深い竹中家を選んでいること。これまでの関係から黒田家を粗略にはできないだろうとふんでいた。

 また忠之自体の血筋。忠之は家康養女の子であり、家康の外孫でもある。この点も幕府は考慮するであろう。

 大膳の交友関係もものを言うはずである。大膳の先生は林羅山で、幕閣に大きな影響力がある。加えて各藩の家老など上層社会にもシンパが多い。

 そうして幕府を巻き込んだ騒動にもかかわらず、黒田家は本領を安堵され、主君忠之に対しても、身を持って改心させることができたのだ。

忠之の墓(博多区 東長寺)
 忠之はその後汚名返上とばかり、島原の乱では奮戦して本丸一番乗りを果たし、幕府の命令の長崎警固番も順調に勤めた。

 また宗教を重んじ、糸島志摩にある桜井神社や西区愛宕神社を建立した。

 その他衰退し途絶えていた博多の祭り、松囃子を復活させ、施餓鬼棚回り(祗園山笠)を保護奨励している。松囃子は慶長15年より31年間中断していた。そして室見川の白魚漁の奨励も忠之の尽力が大きかったという。

 黒田騒動で汚名が残る忠之だが、意外に今日の博多に残る祭りや風習に、少なからず関与していたのである。

 だいぶ荒治療だが、栗山大膳の引き起こしたこの騒動がなければ、歴史はどう変わっていただろう。ちなみに今年平成14年は、栗山大膳没後350回忌にあたる。

【参考文献】
『黒田家譜 第1、2巻』 貝原益軒、他 著
『博多に強くなろう2』 福岡シティ銀行編
『福岡県の歴史』 平野邦雄、飯田久雄 著
『黒田如水』 三浦明彦 著
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