ホーム博多ARE-KORE>近代演劇の祖 川上音二郎


『権利幸福嫌いな人に
自由湯をば飲ませたい
オッペケペー
オッペケポッポー
ペッポッポー』

オッペケペーで有名な川上音二郎は、明治期にあって、近代演劇の先駆け者であった。
またその類まれな発想と行動力で、当時の人を大いに驚かせたことであろう。

※写真は、古門戸町にある生誕の地の碑。
第11回 近代演劇の祖 川上音二郎
 川上音二郎は、1864年元日、中対馬小路(ナカツマショウジ、現在の博多区・古門戸町と須崎町の境界の道筋)の船問屋に生まれた。
音二郎の父親は、歌舞伎役者に肩入れしたり、博多にわかを演じたりと、家業が傾くほど、仕事より芸事に熱心であった。少年期の音二郎も多分にその影響を受けたであろう。


 14歳で家を飛び出し、大阪行きの船に密航した。その後上京して、様々な職を体験している。
明治15年(1882年)、京都で巡査をしていたのだが、当時流行の自由民権運動にのめり込んでしまい、一転して壮士となった。
元々弁舌は得意で、政府批判を始めると、その鋭い舌鋒で一躍脚光をあびた。
巡査から今度は取り締まわられる側になり、監獄にも度々拘留されたり、演説禁止を命じられたりしている。


◆オッペケペーから壮士芝居へ
 手も足も口も出せなくなった音二郎は、行き詰まりを感じ、歌舞伎芝居や落語の世界に飛び込むのであった。
ところが弁舌はうまいが、芸については基礎すら知らなかったので、先輩芸人の足元にも及ばなかった。
そこで何か変わったことをやろうと、落語の後に、政治を批判し世相を風刺する、うたをうたったのだ。
これが“オッペケペー”である。
これには観客にも大いにウケて、たちまち人気があがった。


 続いて壮士芝居に興味を持ち、明治24年に川上一座を旗揚げをしている。
この音二郎の壮士(書生)芝居だが、歌舞伎を中心とした旧来の演劇(旧派)に飽き足らない、新しい演劇を目指していた。これが後に、新派と呼称される演劇界の流れの元となるのである。
その演目は政治的色彩が濃く、役者もほとんど素顔だった。また肝心の演技は、役者経験が少ない素人集団で、お粗末な点も多い。
歌舞伎の厚塗りのメイクや、所作振る舞い、型を見慣れた観客は、さぞ戸惑ったことであろう。


 しかしその壮士たちの芝居の熱気・迫力たるや、見る者を圧倒したという。特に柔道を取り入れた立ち回りは迫力満点で、役者も生傷が絶えない大熱演を繰り広げた。そして幕間で、お馴染みオッペケペーをうたうのである。
これが東京公演で大評判となり、いつしか政治家や財界の大物も観劇に来る様になった。


◆貞奴との結婚
 そしてこの時期、音二郎は芸者“奴”と出会っている。
芸者“奴”、本名は“貞”といい、器量も良く芸事も達者で、色町随一の売れっ妓である。伊藤博文を始めとした政府高官や財界の大物からも贔屓にされていた。
型破りな音二郎に、お転婆芸者の貞。いつしか互いに魅かれていったのであろう。
後の話だが明治27年、貞を身請けした音二郎は、同郷の先輩で、何かと後援してくれていた金子堅太郎に仲人を頼み、貞と結婚する。音二郎30歳、貞23歳だった。


◆故郷に錦を飾る
 東京公演の成功から、川上一座の人気がうなぎのぼりで、各地の公演も大盛況であった。それから壮士芝居が各所で発生し、大流行となったのである。
音二郎の勢いは納まらない。明治25年に皇后陛下の御前で披露する栄誉を受け、また翌年には演劇研究の為に欧州視察を行っている。
そして日清戦争が始まるや、なんと戦地まで飛んでいって視察し、帰国して戦争劇を上演している。この行動力には驚かせられる。そして、これがまた大入り満員となった。


 明治26年、中央での成功をひっさげ、生まれ故郷・博多に、一座を引き連れて帰って来た。芝居小屋、教楽社(現在の上呉服町)で公演する為だ。
この公演に先駆けて、亡き父の法要を東公園の広場に祭壇を設けて、とりおこなっている。
市内11ヶ寺の住職に読経をあげさせ、焼香の後には音楽隊の演奏や芸者などの踊り、花火まで打ち上げる大イベントだった。

 
 このような音二郎の型破りな行動は、お祭り好きの博多っ子たちも驚かせ、喜ばせている。そうして本公演も、熱狂的に迎えられたのであった。
【参考文献】
『川上音二郎の生涯』 井上精三
『福岡町名散歩』 井上精三
『開場記念 新派 特別公演プログラム』 博多座
『イミダス2002』 集英社
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