「博多」という名称は、奈良時代の「続日本紀」から見られる古い地名で、その由来は以下の如く諸説・俗説ある。
- 昔話から。―飛騨内匠という者が中国に渡ろうとして、木で鳶(とび)を作った。筑前を過ぎたところで、矢で落とそうとする者がいて、木鳶の片羽を射抜き、その羽が落ちたところを「羽形」と号するようになった。これが後に「博多」と改まった。
- 土地が博(ひろ)く、人も多いから「博多」となった。
- 船が泊まる潟、すなわち泊潟(はかた)が「博多」となった。
古来、鴻臚館・遣唐使の時代から、中世の商人の活躍など、国際交流・商業貿易の拠点として「博多」は繁栄を重ねていた。
関ヶ原の戦い以降、黒田藩が筑前の地を治めるようになるのだが、黒田家のかっての郷土であった備前「福岡」の地名をとって、その新しい城下町に命名している。
そうして現在の中洲に流れる那珂川を境に、東が商人の町「博多」、西が武士の町「福岡」として、双子都市が形成されたのである。
明治21年4月、「市制及び町村制」の公布により、「博多市」にするか「福岡市」にするか、喧々諤々(けんけんがくがく)の大論争になった。
「博多が福岡より納税額が多い。」
「県庁所在地だから県名と同じ、福岡市にすべし。」
「博多の名は古来より有名。他県人は博多の方をよく知ってるし、商業関係上必要。」などなど。
博多市として福岡との分離独立論もでたが、将来の発展に不利との意見で、立消えになったりもした。
翌年3月、福岡県令で市名を「福岡市」と告示し、4月1日から市制が始まる(このとき同時に、鉄道駅名を「博多駅」とした)のだが、博多側は収まらない。
激怒した博多側議員は、市名変更の手続きを市議会に提出したのだ。
そうして明治23年の2月14日市議会、市名変更の採決がとられることになる。傍聴席は超満員、いきり立った壮士も目立ち、議場は一種異様な空気が漂う。
議員の数では、福岡13人に対し博多17人と博多側に優位だったが、福岡勢に脅かされ市議会を欠席したり、トイレにでたまま軟禁され帰って来れない人もいたともいわれ、採決は13票対13票と同数であった。
そこで議長の1票を加えることになる。
福岡部出身の元士族である議長は、「300年続く、福岡の名は消せぬ」と市名変更に反対した。
結局「市名変更すれば、市の調和が破られる恐れがあり、市名変更しないことに決す」との裁定になる。
ところが、市名変更騒ぎはこれで片がつかず、明治32年と昭和初期に再燃し、長く尾をひいたのである。
戦後になってしばらくの間、住所を記入する際に「福岡市」と書かず、「博多」と書く古老も多かったという。
いまでは、福岡に住む人の郷土意識の愛称として「博多」の名が親しまれている。
年中行事となると、博多の名が福岡市からとって代わる。また屋号・商品名に使用する例も多い。
尚、昭和47年福岡市が指定都市になり、区制施行で、「博多区」として公称名に蘇った。
【参考文献】
『福岡の歴史』 福岡市
『福岡町名散歩』 井上精三
『九州の鉄道100年』 守田久盛、神谷牧夫
『博多の絵日記』 江頭光 |