「酒はのめのめ のむならば、
日の本いちの この槍を。
のみとるほどに のむならば、
これぞまことの 黒田武士。」
JR博多駅を降り立ち、博多郵便局の前に歩むと、母里太兵衛(ぼり たへえ)の銅像がある。あの槍と大杯を持った武士像といえば、判るだろう。この銅像を旅行者が見たら、福岡に着たな、と実感させる有名な像ではないか。
母里太兵衛は、後藤又兵衛と共に、黒田二十四騎の一人として数えられる勇将だ。戦国期の勇将=酒豪は偏見であろうが、太兵衛も例に漏れず大酒飲みであった…。
今回は、この“黒田節”の元となったエピソードを紹介したい。
母里太兵衛の主筋である、黒田長政が秀吉に従って伏見城にいた頃。長政は、親友である戦国大名の福島正則のところに、太兵衛を使いにやった。
その際、太兵衛の酒好きを知る長政は、正則から酒を勧められても呑んではいけないとクギもさしておいた。これは、福島正則の酒癖の悪さもよく知っての配慮であろう。
さて太兵衛が行くと、案の定、正則が酒を呑んでいて、「よく来た、さぁ一献つかわそう。」と酒を勧めてくる。
太兵衛、ごくり、と咽喉がなるが、まぁ我慢我慢。酒が呑めませんので、と断りを入れる。
いつの世も、女と下戸に酒を無理強いして楽しむ人種はいるもので、「まぁ、そう言わず、お主ほどの勇将が呑めぬ筈がない。さぁ呑め」と正則は聞かない。酔眼で、呑め呑め呑め、ときた。
なかなか強情な太兵衛を前に、正則も酔いにまかせ「よぉしそれでは、この杯の酒が呑めたら、お主の望む品をとらそう」と、五合ほどの酒がなみなみと注がれた大杯をさしだした。
何分、気性の荒さで知られる正則のこと、ここで断ってもタダですむかどうか。
時代も槍働きで大名になれる戦国期だ。江戸期に確立された武士道とは、心胆もしたたかさも違う。その勇将の太兵衛だ。
このままでは男の面目が立たない、とハラを決め、座上の大身槍に目をやる。
そして、両手でかかえるほどの大杯の酒を、ぐぃと一気に呑み干した。
正則もあっけにとられつつ、「おお見事」と感嘆した。しかしそうは言っても、「望みの品をやる」と約束してしまっている。マズイではないか。
続けて、空になった大杯に酒を注がせ、「さぁ、もう一献。」
勧められるまま、三杯の酒を飲み干した太兵衛。座上にかけてある大身槍を手に取り、「ご免」と席を立った。
さすがに正則もあせった。太兵衛が手にした槍は、太閤殿下に授かったばかりの名槍。正親町天皇が足利将軍 義昭に下賜し、織田信長、豊臣秀吉を経て、小田原攻めで功績のあった正則が拝領した、由緒あるものだ。
「待て!」と、太兵衛を呼び止める。太兵衛は振り返り、「武士に二言はござるまい。」と取り合わず、悠々と帰路につく。
それが藩内で、“呑み取り槍”と評判になったのだ。
|