博多は、昔から朝鮮や中国などと貿易(勘合貿易など)をやっており、商人を中心に発展した町であった。しかし、大内氏の滅亡とともに、外国船の入港が少なくなり、貿易の中心が、堺、坊津、平戸に移ってしまう。その後、復興の兆しがあるが、大友氏と龍造寺氏の戦(天正二年1574年)で、博多の大半が焼けてしまう。そのうえ、秀吉の九州統合へ動く時に、薩摩の島津勢が博多の町を焼きはらたっりして、薩摩に引き上げていった。ついに,博多は廃墟となる。島津氏は、その後に、秀吉によって征伐される。
博多の復興は、島津征伐の帰り、筥崎に陣をとる。(天正十五年1587年)秀吉の茶会の相手としての、神屋宗湛,嶋井宗室から博多の復興を嘆願した。六月十日、秀吉は南蛮船に乗り湾上より視察し、その地に立ち、すぐさま指示して博多の復興に着手した。(これが、「太閤町割り」である。その上、楽市楽座の定書九ケ条で「博多では、だれでも自由である。諸税や諸役は免除する」などの特権を与え、秀吉の直轄地としたので、昔を上回る繁昌をとりかえすようになる。
豊国大明神の社宝であった間杖(ケンジョウ)に刻まれた銘文。
「天正十五年六月十四日博多町割りの吉日」と書いてあったと伝えられている。(昭和二十年の空襲で焼失。)
天正十五年(1587)から、現在の平成十三年(2001)までの414年間の発展の礎をつくたのは、秀吉だったのです。
【参考文献】
『ふくおか歴史散歩』 福岡市
『福岡町名散歩』 井上精三
『博多』 武野要子
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